NBAの歴史に刻まれる伝説的選手、ビルラッセルさん。2022年にこの世を去りましたが、同年にビルラッセルさんが背負った背番号6は史上唯一、NBA全チームでの永久欠番となっています。まさにバスケットボールの神様のような方ですね。
今回はビルラッセルさんの功績と生い立ち、驚異の優勝回数などについて振り返りますよ。
ビルラッセルの生い立ちと経歴
バスケットボールの世界の伝説的存在であるビルラッセルさん。その功績と生い立ちを振り返っていきますよ。
ルイジアナ州モンローで生まれる
1934年2月、ルイジアナ州ウェストモンローで生まれたビルラッセルさん。当時その地は厳格な人種隔離政策が敷かれており、黒人のラッセルさんもまた多くの人種差別が取り巻く環境に身を置き、両親が差別的な虐待を受ける姿も目撃してきたといいます。
第二次世界大戦の最中、周囲の多くの黒人がオークランドに移住、ラッセル一家もその流れに乗り引っ越すも、移住計画がうまくいかなかったこともあって一家は貧困に陥り、母はビルラッセルさんが12歳の時に亡くなります。職を転々としながら一家を支えた父親はビルラッセルさんにとってヒーローでした。
高校時代にバスケットボール選手としての素養を鍛える
恵まれた身体能力、バスケに有利な大きな手もあったビルラッセルさんですが、試合の理解度が足りずに中学時代はチームから追い出されてしまうこともあったそう。
高校二年の時も同様にチームから追い出されるも当時のコーチがビルラッセルさんの才能を見出し、基礎から取り組むように奨励しました。それまで白人からの差別を受け続けていたビルラッセルさんは、自分に向き合ってくれた白人コーチの教示を喜んで受け入れ、ディフェンススタイルの基礎を学んでいきましたよ。
サンフランシスコ大学へ進学
高校時代は無名選手だったビルラッセルさんですが、クラッチタイムにおける素晴らしい才能を見いだされ、奨学金の提供を受けてサンフランシスコ大学へ進学します。ディフェンスに主眼を置いたコーチの指導により、ビルラッセルさんの能力が開花。当時の主流ではなかったプレイスタイルを確立してカレッジバスケ界の新星となり、サンフランシスコ大学は1955年から1956年になんと55連勝。なお、同時期にビルラッセルさんは陸上選手としても活躍しましたよ。
黒人選手も多かったサンフランシスコ大学。黒人選手のみがホテルの宿泊を拒否されるなどの差別を受けることもあったものの、その際に白人選手も含めた全員が宿泊を取りやめるという、チームの結束を深める出来事もありました。
策謀の末にセルティックスが獲得
カレッジバスケのスターであり守備の名手だったビルラッセルさんを熱烈に欲したのはボストン・セルティックス。ドラフトの指名順位的にはセルティックスがビルラッセルさんを獲得できる可能性はゼロに等しかったのですが、そこでセルティックスは2位指名権を持つセントルイス・ホークスとトレードを用いた取引を行い、ホークスが指名したビルラッセルさんは程なくしてセルティックスに入団することとなりました。
多大な労力、トレードに伴う出血も受け入れてビルラッセルさんを獲得したセルティックス。この取引は、後にNBAドラフトの歴史における最も巧妙かつ重要な取り引きに挙げられましたよ。
オリンピックで躍動
ドラフトを経たこのタイミングで、ビルラッセルさんは1956年メルボルンオリンピックに出場することとなります。アメリカ代表チームのキャプテンを務めたビルラッセルさんはチームのリーディングスコアラーとして活躍。見事チームの金メダルに貢献しましたよ。なお、この時にビルラッセルさんは走高跳でのオリンピック出場も考えていたのだとか。複数の競技でオリンピックの国代表を背負えるレベルにあったというのも凄い話ですよね。
セルティックスに劇的な変革をもたらす
オフェンスに偏った極端な戦力バランスによって優勝からは遠のいていたセルティックスは、ビルラッセルさんの加入によって劇的な変革をもたらされることとなります。ビルラッセルさんが相手の攻撃を止めてくれるという信頼の下、よりアクティブな攻撃を仕掛けられるようになり、ビルラッセルさん一人でオフェンスとディフェンスのバランスを見事に是正させたのです。
加入一年目、1956₋1957シーズンからチームを初優勝に導いたビルラッセルさん。翌年は惜しくも連覇を逃すも、自身初のシーズンMVPを受賞しましたよ。
11度の優勝と5度のMVP
1958₋1959シーズンから、ビルラッセルさんを中心としたセルティックスはなんと8連覇の偉業を成し遂げます。最終的に13シーズンをプレーしたビルラッセルさんは、その中で11度の優勝、5度のMVPに輝いています。
MBAの歴史の中で、セルティックスは2026年現在18度の優勝に輝いています。これはロサンゼルス・レイカーズを一つ上回る、全チーム最多の数字です。とはいえ、ビルラッセルさん在籍時に11度、ビルラッセルさんが現役を退いた1969年より後では50年以上で僅か7度。ビルラッセルさんの存在の大きさが伝わってきますね。
ボストンに訪れた突然の別れ
晩年はコーチを兼任し、黒人として初の優勝チームのヘッドコーチの栄誉を手に入れたビルラッセルさん。しかし、現役最後の優勝後、ビルラッセルさんはセルティックスとの関係を一切絶ち、一方的に引退。ボストンへの凱旋パレードにも参加しませんでした。
長年に渡り差別を受け続け、NBAのトッププレイヤーになってからも変わらずそういった経験をしたビルラッセルさんは、どこか心を閉ざしたような所があり、ビルラッセルさんが示す差別への反発的姿勢が更に対立を産むという泥沼に。ボストンの英雄であったはずのビルラッセルさんは、ボストン市民には何の恩も無いと言ってボストンから距離を置くことになったのです。
1999年にコートへ帰還
黒人としてトップアスリートになり、人種差別に対し立ち向かい続けたこともビルラッセルさんの功績です。彼の下でセルティックの選手達は人種の隔たり無くリスペクトしあう光景もありましたし、多くの白人のセルティックスファンはビルラッセルさんのことをリスペクトしていました。
猜疑心にさいなまれ、賞賛も素直に受け止められなくなったこともあったビルラッセルさんですが、1990年代にボストンに再び姿を見せるようになります。セルティックスがホームを移すこととなった1999年に、ビルラッセルさんは再びセルティックスのホームコートに立ちます。観衆からのスタンディングオベーションに、ビルラッセルさんは涙を流しましたよ。
最後に
今回はビルラッセルさんの功績と生い立ち、驚異の優勝回数などについて紹介しました。NBAの歴史にその名を刻んだビルラッセルさん、全てのチームで6番が永久欠番になっているというのもとんでもない話ですよね。NBAの歴史が続く限り、全てのNBAファンがビルラッセルさんの存在を意識し続けることでしょう。









